2005. 11. 27.の説教より

「 イエス様の掟と愛と 」
ヨハネによる福音書 14章15−19節

 今日の15節ですが、イエス様は、このように語っておられます。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」とです。同様のことが、この少し後の21節でも、「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」という言い方で、イエス様によって語られています。それらの箇所でのイエス様の言い方からしますと、イエス様の守る者となってこそ、わたしたちはイエス様を愛している者となる、イエス様を信じている者となる、ということになります。言い方を代えて言いますならば、どんなにイエス様のことを愛しています、信じていますと口にしていたとしても、イエス様の掟を守ろうとするところがなかったならば、イエス様のことを愛しているとは、信じているとは言えないということです。言うまでもなく、イエス様の掟と言えば、13章34節で、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と語られていますように、イエス様がわたしたちを愛してくださったように、わたしたちもお互いに愛し合うことなわけです。
 確かに、考えてみましても、イエス様のことを信じている、愛していると言いながらも、イエス様がわたしたちに最も求めておられることを、どうでも良いことであるかのように考えていたとしたならば、それは、ひじょうにおかしなこととなるのではないでしょうか。イエス様のことを心からほんとうに思っているならば、やはり、それなりのあり方が出てきてこそと考えられるからです。まさに、そのことを語っているかのように思われるイエス様の言葉が、マタイによる福音書7章21節に出てきます。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」との言葉です。そうしたことから言いましても、イエス様がわたしたちを愛してくださったように、わたしたちもお互いに愛し合うというイエス様の掟を守ることが、わたしたちにとって、どけだけ大切にしなければならないことかわからないわけです。その意味では、些細なことでいがみ合ったり、衝突したり、分裂したりしていることなどは、まさに、わたしたちの間においてはあってはならないこととなるのではないでしょうか。それにもかかわらず、わたしたちの現実はと言えば、残念なことではありますが、時としてさまざまな衝突やいがみ合いが生じたり、主義主張の違いから分裂が生じたりすることがあるわけです。主義主張の違い程度のことで分裂が生じたり、一緒に協力してやるべきこともできなくなるということなどは、まことに悲しむべきこととなるのではないかと思われるのですが、さまざまな場面で見られるということになっているわけです。もし、そうだとするならば、わたしたちは、イエス様のことをほんとうには愛していない、信じていないということになってしまうのでしょうか。どんなに、自分では、イエス様のことを愛している、信じていると思っていたとしてもです。
 このことを考える場合、わたしたちとしては、やはり、お互いに愛し合おうと思いながらも、愛し合うことができないというよりは、愛し合いきることができない弱さを持つ者としてしか生きることができないことを考えるべきではないでしょうか。使徒パウロではありませんが、しようと思うことはせずに、しようと思わないことをしてしまうわたしたちの弱さをであります(ローマの信徒への手紙7章15節)。きわめてやっかいな現実をであります。そうしたことから言いましても、わたしたちが、イエス様がわたしたちを愛してくださったように、お互いに愛し合うことができなかったとしても、そのことをもってして、同じ信仰を持った人のことを責めることは、すへきことではないのではないかと思うのです。
 では、そうした弱さを持つ者としてのわたしたちが、お互いに愛し合おうと思いながらも、愛し合うことができないわたしたちが、イエス様の掟を守るというのは、どういうことなのでしょうか。イエス様は、そうしたわたしたちの弱さを、お互いに愛し合おうと思いながらも、愛し合うことができないわたしたちの現実を、ご存じなかったのでしょうか。ご存じでなかったから、そのようなことをわたしたちに言われたのでしょうか。ヘブライ人への手紙の4章15節ですが、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」とありますように、イエス様は、わたしたちにとって、どこまでもわたしたちの弱さを思いやることができるお方として、同情してくださる方としておられるのです。また、そうでなければ、しようと思うことはせずに、しようと思わないことをしてしまうような現実を持っているわたしたちなどは、とうていイエス様の御許にあって生きることなどできないのではないでしょうか。
 そうしたわたしたちの弱さを、イエス様は、ご存じだったからこそ、15節で、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」と語られた言葉に続けて、16節以下となりますが、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」と語られて、わたしたちのために弁護者なる聖霊を与えてくださるということを語っておられるのではないかと考えられるのです。また、そのことのほうに、多くの割合を割いて、イエス様は、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」ということについて語っておられるわけです。そのため、今日のところを読みますとき、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」と語られ、どうして長々と、わたしたちに与えてくださる弁護者なる聖霊について長々と語られることになっているのだろうか、との印象をお持ちになる方もおられるかもしれませんが、わたしたちはお互いに愛し合おうと思いながらも、愛し合うことができない現実を持っていることを、ほんとうに弱い者だということをイエス様がご存じだったからこそということが、そこにはあるわけです。弱さを持つ者としてしか生きることができないわたしたちへの神様の配慮と言っても良いかもしれません。毎週、ほんの30分間だけですが、礼拝の前に、旧約聖書を、その最初から少しずつ読んでいるのですが、今、やっと創世記の3章が終わったばかりですが、そうした旧約聖書の最初のほうを読んでおりましても、弱さを持つっているわたしたちのために、神様がさまざまなかたちで配慮してくださっていることを、見ることができるわけです。たとえば、こんなことが語られています。アダムとエバとが、罪を犯したためにエデンの園から追い出されることになった時のことですが、「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(3:21)、エデンの園から追い出されるにあたって、神様が、「皮の衣を作って着せてくださった」というわけです。これから、額に汗して、苦労して食べ物を得るために労しなければならなくなってしまったアダムとエバへの配慮以外のなにものでもなかったのではないかと思われるのです。その後、アダムとエバとの間に生まれたカインとアベルの事件のときにおいても、弟アベルを殺したカインに対して神様がなされたことはと言えば、ひとつの徴をカインにつけて、カインを守るというものであったわけです。そのように、神様は、罪深い者をさえ配慮されるお方ですので、弱さのゆえにイエス様が与えてくださった掟を守ることができないわたしたちに対しても、弁護者なる聖霊を与えてくださるというのも、神様からすれば当然のことだったのかもしれません。
 この弁護者なる聖霊ということですが、他の聖書の訳で見てみますとき、「助け主」「another Helper」としているのがほとんどで、「弁護者」と訳している聖書の訳は少ないかもしれません。どちらも、それなりに、弱さを持つ者としてしか生きることができないわたしたちへの神様の配慮として与えらる聖霊について語っているものとしては、甲乙つけがたいところがありますが、17節の「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」という言葉との関わりで考えますとき、他の聖書の訳において用いられている「助け主」としたほうが、わたしたちとどのような時にも一緒にいてくださるお方としての聖霊を、よく言い表したものとなるのではないかと思われるのです。つまり、わたしたちが、自分たちの弱さに、弱さというよりは、しようと思うことはせずに、しようと思わないことばかりをしてしまっている惨めなわたしたちを助けてくださる聖霊の働きがよく言い表されているように思われるからです。
 いずれにしましても、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」と語られて、わたしの掟を守っていないならば、わたしを愛しているものではないとまで、厳しいことを言われているように見受けられるイエス様ではありますが、そのすぐ後では、わたしたちに助け主を送って、いつも助けてくださることをも語ってくださっているわけです。そのように、わたしたちのことをどこまでも、守り支えられるために、配慮してくださるのが、わたしたちにとっての神様なわけです。この神様に信頼して歩む者でありたいと思うものです。